Diary-nagataka-シリコンバレーで働きたい!という夢への日々

外資ITで働くエンジニアが趣味や日々の事など書いてます(技術の話は別ブログ http://wanna-be-geek.seesaa.net/ )

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経済学者"らしく"考えるって...

どうも、なんとなくPHPでyahooファイナンスから株価を取得してきてCSVファイルで出力するスクリプトなど組んで現実逃避をしていますながたかですw

研究は中間発表で散々な突っ込みにあい、どうでもよく...なったわけではないのですが、新規性を出すってとても大変だと実感しておるのであります。

まぁ逃避するんじゃなくて、これはとても良い修業の機会なので、出来る限り頭捻って頑張ろうと思います^^


さてさて、先日から読んでいるマンキューの入門経済学、もう第七章まで読了しました(復習問題はかなり放置気味...毎週数問ずつ週末にやっています。。)



で、外部性に対する公共政策ということで、ピグー税というものについて言及されている項がありました。

そこで以前感じたものと同種の違和感を感じたので、ここにまとめながら改めて考えてみたいと思います。

まず、
Q:ピグー税って?
A:負の外部性を矯正するために課す税。

Q:(負の)外部性って?
A:ある者の行動が周囲の人間の経済的福祉に与える影響。例えば、環境汚染。

Q:税をかけると?
A:例えば、車の排出ガスは人間の体に悪い影響を与える。なので、社会に対して負の外部性を持つ。これに税をかけると、ガソリンの消費者(ドライバー)としては、ガソリンをなるべく使わないような方向へのインセンティブが働く(カーシェアをしたり電車を使ったりエコカーに買い替えたり)。
このように、市場関係者に、自らの外部効果を考慮に入れるインセンティブを与えるような税の活用の仕方を外部性の内部化という。

で、このように、税を課す事で、汚染物質の排出を規制するのと同等の効果が得られるという内容が書かれています。

ここで挙げられている例なのですが、例えば、汚水を年300トンに規制した場合を考えます。
製紙工場と製鉄工場があったとして、この二つの工場は、汚水の排出抑制の難易度の度合いが違う可能性が考えられます。

そうなると、仮に製紙工場はある程度楽に規制ラインを達成する事が出来るのだけど製鉄工場にはそれが難しい。

となると、製紙工場として「もし製鉄工場が五万ドルを支払ってくれるならば、汚水の排出をさらに100トン減らす事に同意してもいい」ともちかける可能性もありますよね。

で、仮に、現状製紙工場が300トン、製鉄工場が300トンの汚水を排出しているのだけれど、製鉄工場はもっと製品を作りたいのであと100トン汚水を排出したい場合、製鉄工場がこの交渉をのめば、製紙工場が200トン、製鉄工場が400トンを排出し、製紙工場は五万ドルを受け取る事になります。

こうなると、社会全体としては600トンの汚水という負担は変らず、だけれども製鉄工場は製品を沢山作れて、製紙工場は五万ドルを得られてハッピー、という事になりますね。

本にはこうあります

経済の効率性の観点からは、この取引を認めることは良い政策である。それぞれの工場の所有者は自発的にその取引に合意しているので、取引は両者の厚生を改善するはずである。そのうえ、汚染の総量は同じなので、その取引による新たな外部効果は生まれない。したがって、製紙工場が製鉄工場に汚染する権利を販売するのを認めることは社会的厚生を高める



これが、CO2の排出権取引なんかの思想なんだなぁと読みながら納得したのです。

けど、排出権取引を初めて知った時にも感じた違和感を感じざるを得なかった自分がいます。

確かに、排出総量は変らないから、「ボクは規制ラインの300じゃなくて200まで減らせるから、ボクにお金をくれれば余った100の分キミが排出していいよ」というのはその通りなのだけど、なんだか腑に落ちないというか。。

規制ラインが300なのに200まで減らすのは素晴らしい!けど、余計に削減出来た分があるからって、それを良い事に他の誰かがわざわざそれを負の穴埋めしなくていいじゃん...と思ってしまったんですね、初めて排出権取引という言葉を知った当時。

ってな事を思い出しながら本を読み進んで行くと、とあるアメリカの議員の発言が書かれていました。

「われわれは、代金を支払わせて汚染する権利を与えることはできない」
と、エドモンド マスキーという議員の方が言ったのだそうな。

それに対するこの本の解説なのですが

確かに、きれいな空気やきれいな水には価値がある。しかし、その価値は機会費用と比較されなければならない。すなわち、それらを手に入れる代わりに放棄しなければならないものと比較されなければならないのである。すべての汚染をなくすのは不可能である。すべての汚染を取り除こうとすれば、高い生活水準を享受することを可能にしてくれた多くの技術進歩が逆行してしまう。ほとんどの人は、環境をできるだけきれいにするためだといっても、貧弱な栄養や不十分な医療、みすぼらしい家で我慢しようとはしないだろう。
経済学者は、環境活動家が経済学の用語で思考しないために、かえって環境保護を進まなくしていることがあるとう。きれいな環境は他の財と同様に一つの財である。すべての正常財と同様に、所得弾力性は正である。豊かな国は貧しい国よりもきれいな環境を供給する事ができ、そのため通常はより厳しい環境保護を行っている。他の財の需要と同様、きれいな空気と水は需要法則に従う。さらに、環境保護の価格が低いほど、人々は多くの環境保護を望む。したがって、汚染許可証やピグー税といった経済学的アプローチによって環境保護の費用が減少すると、きれいな環境への人々の需要は増加するのである



きちんと考えを言語化して反論できないのだけれど、どうしても腑に落ちない。
特に一番最後の下り。

価格が低ければ需要が増える。費用が減れば価格が抑えられる。
言っている事はわかる、この本の最初の方で学んだ。

でも何だか腑に落ちない。

なんだろうこの違和感。


経済学の用語で思考出来るようになっても尚この違和感を感じるようであったら、そのときは反論しよう。
この感じは一先ずブログのエントリーとして記録し寝かせておく。


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  1. 2009/12/07(月) 00:15:45|
  2. | トラックバック:0
  3. | コメント:3
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コメント

ども、昨日コメントいただいたhaniwaです。
仕事脳から逃避するために、あと昔習った杵柄を蘇らせるために、僕もゆっくりとマンキューを読み続けてます。昔はスティグリッツを多少読んでましたが、マンキューの方がacademicな面と読み物とのバランスが絶妙ですね。分野は違いますが、僕も研究生活では発表1ヶ月前に体を壊して入院するほど突っ込まれまくった記憶がwww。
  1. 2009/12/08(火) 02:16:39 |
  2. URL |
  3. haniwa #hyQlpKVg
  4. [ 編集]

コメントありがとうございます^^返すのが遅れてしまいすみません。。
色々な所で書かれている事ですが、マンキューは挙げられている例などがとても読み易くていいですよね。イメージがつきやすいので構えずに読めますね。
自分もこれから継続して経済学は学んでいこうと思ってます!

体調崩して入院するほどですか(汗)ホント研究っていうのはストレスフルですよね...けどまぁ、これも良い修業だと思って、なんとか悔いが残らないように頑張ります。
  1. 2009/12/11(金) 01:21:39 |
  2. URL |
  3. ながたか #-
  4. [ 編集]

四要素一体論


(しようそいったいろん)

【時間】
時と間。時間は分かる。然し時は分からない。或時間を観ていても、時は外在す。時は内在しているとは言えない。すなわち《時》は要素である。

【空間】
空と間。空間は分かる。然し空は分からない。或空間を観ていても、空は外在す。空は内在しているとは言えない。すなわち《空》は要素である。

【物質】
質と物。物質は分かる。然し質は分からない。或物質を観ていても、質は外在す。質は内在しているとは言えない。すなわち《質》は要素である。


《時・空・質》是すなわち主(あるじ)を構える三要素である。空は質を有し、質は時を与す。主(あるじ)は唯これを感ずるのみ。《無形有質の真理》


【主観】
可能性(二間一物)と私。時間・空間・物質は観ずることが出来る。然し私は分からない。観ずることが出来ないので、私は内在しているとは言えない。すなわち《主》は《時・空・質》と同列の存在である。(《時・空・質》そして《主》を合わせて四要素。)


『四要素を一体とし、我は無の中に在る。』




※二間一物
(にかんいっぷつ)
⇒時間・空間・物質





『可能性の出来した出来事と私の予測との間には、とび越えることの出来ない何かがある。』

信仰とは可能性(カオス)に屈すること、美しく言えば要求を神に委ねることである。宗教の起源は未来に対する不安が出来したとき、即ち人類が、認識上の世界の拡散した様々な情報を調和的に纏め、自然の現象として依存する習慣を持ち、またこの習慣から予測する『未来』と言う概念を創り出し、その未来を打ち砕く可能性について不安に感じたときである。


『宗教を知る民(もの)は信仰に溺れず、また科学を知る者もこれに溺れる事はない。その彼らの基礎は哲学であり、哲学の背後には観る者のいない真理がある。客観的な真理など、ない。そう言う意味での真理を誰もが面白おかしく踊って探すのである。』



いいないいな にんげんていいな
おいしいおやつに ほかほかごはん~
いいないいな にんげんていいな
みんなでなかよく ポチャ ポチャおふろ
あったかいふとんで眠るんだろな


環境サミット
  1. 2009/12/11(金) 21:06:36 |
  2. URL |
  3. 神の見えざる手 #-
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