Diary-nagataka-シリコンバレーで働きたい!という夢への日々

外資ITで働くエンジニアが趣味や日々の事など書いてます(技術の話は別ブログ http://wanna-be-geek.seesaa.net/ )

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書けよ、そうすりゃわかるから

どうも、早寝早起き生活継続中のながたかです。

先週は六時起きが結構出来ました^^
さすがに夕方六時くらいになると段々眠気に襲われて辛いときもあるのだけど、あと三ヶ月半で社会人生活スタートだし、「職場にいつも早く来ている新人」という座を密かに狙っているので今から早寝早起きを習慣化できたらと思います!(笑)


さてさて、完全にタイトル先行で書き始めたこのエントリー。

きっかけは、茂木健一郎さんがおっしゃっていた言葉でした。
茂木さんが以前の講演で、ケンブリッジ時代の先生がおっしゃっていた言葉で特に印象に残っていた言葉を紹介されていました。

それは、「何を書いたらいいのかわからないんです」という生徒に対する先生の「書けよ、そうすりゃわかるから」という言葉だとの事。
自分自身妙になっとくしたのでこうして書いてみる事にしたわけです。


自分の場合、何かについてしっかりと頭を使いながら書くという作業をするのは主に三つ。
自分の研究に対して能書きを用意する必要にかられた時であったり、ゼミの発表で他人の論文を紹介するためにスライドを作る時、そして、ブログに書評や雑感を書く時です。

書きたい事がわかっている場合にはいいのですが、自分の中で、対象に対する咀嚼がまだあまり出来ておらず、なんだか頭の中がゴチャゴチャになっている時ってありますよね。

そういう時、頭の中でひたすらウンウン唸っていると、大抵堂々巡りになってしまいます。
散々考えてみても特に思いつかない。
ちょっとばかし思いついたはいいけど、単発の思いつきが脳内に散在している状態で、結局ゴチャゴチャ。
挙げ句、なんだか対象に対するネガティブな(意味無いんじゃないか、コレ。みたいな)思いさえ浮かんでくる有様(笑)

そういう時、一番効くのは、手書きでもPCでもいいから、とにかく書いてみる事。

自分自身、やっぱり書いてみるとなんだか頭の中が少しはクリアになっていくのを感じる事がある。

書いていて、「あ、なんか八方塞がりに思えたけど、案外色々考えられてるじゃん俺」みたいな事もしばしば(笑)

さらに、箇条書きや表や図を用いたり、書きなぐった内容同士を線で結んだり色をつけたりする事で、なんだか物事が立体的に見えるようになる事もしばしば。

今年度に入ってから研究用に一冊ノートを用意し、またEvernoteというアプリも併用し、思いついた事や考えた事をメモしているのですが、やはり自分の中での対象に対する咀嚼の具合が全然違う。

それに、そうやって記録しておく事で、例えその時点でクリアに出来なかったとしても、外山滋比古さんが思考の整理学で仰っているように、フと後になって何か思いつくかもしれない。
熟成するかもしれない。
寝かせておく事ができる。

書くという作業についての効能は色々な本等で言われていますが、自分も賛成です。

特に、本を読んだ時とか、何か日常生活の中で思う所があった際には、なるべく時間を見つけてブログに書くようにしています。

暇だからブログ書いてるんじゃないですよ(笑)

以前、岩瀬大輔さんが
「新しい内容を勉強するのを少し抑えてでも、復習に時間をとる」
と仰っていたのですが、自分もこれを心がけ、何か考えた事があったら、必ずブログに書くなりしてしっかり自分で咀嚼する機会を設けようと心がけているので、何か読んだり感じたりした時にはこうして言語化して、自分の目で自分の思考を確認して、その上でウェブという拡張脳に寝かせているわけです。

まぁ結果人様に何か役立つような事の一つでも発信出来たら尚良しなのですが、今の自分のブログじゃ全然ダメだろな。

もっと有用な内容を書けるようになりたいな。

書く、考えるに関連して、以下の書籍はお薦めです
考具 ―考えるための道具、持っていますか?」、「考える技術・書く技術」、「思考の整理学
  


考具はインターンの時非常にお世話になった本です。
この本を参考にアイデア出しをしてなんとかインターンの課題を乗り切りました。今だにマンダラートはお気に入りです^^
で、考える技術 書く技術。正直これはまだまだ全然自分には実践できていません。
社会人生活がスタートしたら、これが実践できるようなビジネスマンになって、自分の書く文書のエントロピーを増大させないようにしたいなと思います(笑)
思考の整理学は、卒業研究などに取り組む際に読んでいると何かの役に立つかも!
この本を参考に研究への取り組みを再考してみると、実りある研究生活が送れるかもしれません♪(自分は修業不足のためダメダメですがw)



さてさて、早いもので、今年も残すところあと半月ですか。
日々バタバタしてて、一体いつ休めるのか見当もつきませんが(笑)終わりまでしっかりと走り切りましょう!

また新しい一週間頑張っていきましょうp(^^)q
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  1. 2009/12/13(日) 23:04:18|
  2. 雑記
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経済学者"らしく"考えるって...

どうも、なんとなくPHPでyahooファイナンスから株価を取得してきてCSVファイルで出力するスクリプトなど組んで現実逃避をしていますながたかですw

研究は中間発表で散々な突っ込みにあい、どうでもよく...なったわけではないのですが、新規性を出すってとても大変だと実感しておるのであります。

まぁ逃避するんじゃなくて、これはとても良い修業の機会なので、出来る限り頭捻って頑張ろうと思います^^


さてさて、先日から読んでいるマンキューの入門経済学、もう第七章まで読了しました(復習問題はかなり放置気味...毎週数問ずつ週末にやっています。。)



で、外部性に対する公共政策ということで、ピグー税というものについて言及されている項がありました。

そこで以前感じたものと同種の違和感を感じたので、ここにまとめながら改めて考えてみたいと思います。

まず、
Q:ピグー税って?
A:負の外部性を矯正するために課す税。

Q:(負の)外部性って?
A:ある者の行動が周囲の人間の経済的福祉に与える影響。例えば、環境汚染。

Q:税をかけると?
A:例えば、車の排出ガスは人間の体に悪い影響を与える。なので、社会に対して負の外部性を持つ。これに税をかけると、ガソリンの消費者(ドライバー)としては、ガソリンをなるべく使わないような方向へのインセンティブが働く(カーシェアをしたり電車を使ったりエコカーに買い替えたり)。
このように、市場関係者に、自らの外部効果を考慮に入れるインセンティブを与えるような税の活用の仕方を外部性の内部化という。

で、このように、税を課す事で、汚染物質の排出を規制するのと同等の効果が得られるという内容が書かれています。

ここで挙げられている例なのですが、例えば、汚水を年300トンに規制した場合を考えます。
製紙工場と製鉄工場があったとして、この二つの工場は、汚水の排出抑制の難易度の度合いが違う可能性が考えられます。

そうなると、仮に製紙工場はある程度楽に規制ラインを達成する事が出来るのだけど製鉄工場にはそれが難しい。

となると、製紙工場として「もし製鉄工場が五万ドルを支払ってくれるならば、汚水の排出をさらに100トン減らす事に同意してもいい」ともちかける可能性もありますよね。

で、仮に、現状製紙工場が300トン、製鉄工場が300トンの汚水を排出しているのだけれど、製鉄工場はもっと製品を作りたいのであと100トン汚水を排出したい場合、製鉄工場がこの交渉をのめば、製紙工場が200トン、製鉄工場が400トンを排出し、製紙工場は五万ドルを受け取る事になります。

こうなると、社会全体としては600トンの汚水という負担は変らず、だけれども製鉄工場は製品を沢山作れて、製紙工場は五万ドルを得られてハッピー、という事になりますね。

本にはこうあります

経済の効率性の観点からは、この取引を認めることは良い政策である。それぞれの工場の所有者は自発的にその取引に合意しているので、取引は両者の厚生を改善するはずである。そのうえ、汚染の総量は同じなので、その取引による新たな外部効果は生まれない。したがって、製紙工場が製鉄工場に汚染する権利を販売するのを認めることは社会的厚生を高める



これが、CO2の排出権取引なんかの思想なんだなぁと読みながら納得したのです。

けど、排出権取引を初めて知った時にも感じた違和感を感じざるを得なかった自分がいます。

確かに、排出総量は変らないから、「ボクは規制ラインの300じゃなくて200まで減らせるから、ボクにお金をくれれば余った100の分キミが排出していいよ」というのはその通りなのだけど、なんだか腑に落ちないというか。。

規制ラインが300なのに200まで減らすのは素晴らしい!けど、余計に削減出来た分があるからって、それを良い事に他の誰かがわざわざそれを負の穴埋めしなくていいじゃん...と思ってしまったんですね、初めて排出権取引という言葉を知った当時。

ってな事を思い出しながら本を読み進んで行くと、とあるアメリカの議員の発言が書かれていました。

「われわれは、代金を支払わせて汚染する権利を与えることはできない」
と、エドモンド マスキーという議員の方が言ったのだそうな。

それに対するこの本の解説なのですが

確かに、きれいな空気やきれいな水には価値がある。しかし、その価値は機会費用と比較されなければならない。すなわち、それらを手に入れる代わりに放棄しなければならないものと比較されなければならないのである。すべての汚染をなくすのは不可能である。すべての汚染を取り除こうとすれば、高い生活水準を享受することを可能にしてくれた多くの技術進歩が逆行してしまう。ほとんどの人は、環境をできるだけきれいにするためだといっても、貧弱な栄養や不十分な医療、みすぼらしい家で我慢しようとはしないだろう。
経済学者は、環境活動家が経済学の用語で思考しないために、かえって環境保護を進まなくしていることがあるとう。きれいな環境は他の財と同様に一つの財である。すべての正常財と同様に、所得弾力性は正である。豊かな国は貧しい国よりもきれいな環境を供給する事ができ、そのため通常はより厳しい環境保護を行っている。他の財の需要と同様、きれいな空気と水は需要法則に従う。さらに、環境保護の価格が低いほど、人々は多くの環境保護を望む。したがって、汚染許可証やピグー税といった経済学的アプローチによって環境保護の費用が減少すると、きれいな環境への人々の需要は増加するのである



きちんと考えを言語化して反論できないのだけれど、どうしても腑に落ちない。
特に一番最後の下り。

価格が低ければ需要が増える。費用が減れば価格が抑えられる。
言っている事はわかる、この本の最初の方で学んだ。

でも何だか腑に落ちない。

なんだろうこの違和感。


経済学の用語で思考出来るようになっても尚この違和感を感じるようであったら、そのときは反論しよう。
この感じは一先ずブログのエントリーとして記録し寝かせておく。


  1. 2009/12/07(月) 00:15:45|
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